いきることについて

人生が動く

ここ最近 人生に対する自覚が芽生えてきたように思います。

自分は生きているんだという

確かな足取りを感じられるようになってきたと思うのです。

今までは 自身の内に希望や願望はたくさん携えているものの、

どこか地に足が着いていないような感覚でした。

だけど、最近は現実を直視することが

できるようになってきたと感じています。

そう思えるようになったのは

苦手なことと向き合うことができる態勢が

やっと少しずつ 整ってきたからです。

苦手なことから逃げ続けることにより

それはどんどん大きくなり、

苦しみも大きくなってきていました。

それは際限を知ることがありませんでした。

でも、それと向き合うことができるようになった今、

きっと大丈夫だという想いが湧いてきています。

もちろんこれからだっていろんなことがあるのだろうけど、

何かをつかんだような自信を感じるのです。

今まで、いろんな人に迷惑をかけたことや

イヤな気持ちにさせてしまったことに許しを請いつつ、

その意識を 今とこれからのために向けたいです。

生まれてきたこの世界に

よき何かを残せるように。

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Mémento-Mori

「死を想え」

Mr.Childrenの「花」という曲の副題になっている

この言葉を知ったとき、

一種の憧れのようなものを感じました。

それはこの人生を生きるための

究極のエッセンスであるように思えたからです。

前回までのテーマからだいぶかけ離れて、

(本来は少しも変わらないものだと思いますが)

生と死について考えてみたいと思います。

Wikipediaによるこの言葉の概略は以下のとおりです。

「古代ローマでは 将軍が凱旋パレートを行った際に

将軍の後ろに使用人が立ち、

『将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるか分からない』

ということを思い起こさせるため

『Mémento-Mori』と将軍に言う役目を果たしていた。

ただし、一般的には使われていない言葉で、

当時の趣旨は『今を楽しめ』ということであり、

『食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから』

というアドバイスであった。」

私たちは将来死ぬことになっています。

この生を終える時が必ずやってきます。

始まりがあれば終わりがある。

出会いがあれば別れがある。

それは表裏一体で切り離すことのできない真実です。

また、死ぬことができるから、

今を生きることができる

と考えることもできます。

ネイティブ・アメリカンの写真集の中に

こんな場面を見つけました。

美しく晴れ渡った空の下、

その空と同じくらい

晴々とした表情を湛えた彼の言葉。

「今日は死ぬのに良い日だ」

この日に 一生を終えることができれば

何も悔いることはないという

今日の日の素晴らしさ。

そして、想いの潔さと覚悟。

今を生ききることができれば

どんなに人生が変わってくることでしょう。

日常に埋もれると

自分が死せる存在であることを忘れてしまいますが、

その想いを身近に感じることができるとき

この生の価値はどこまでも高まっていくのではないでしょうか。

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